私が購読しています歯科雑誌THE INTERNATIONAL JOURNAL OF
PERIODONTICS & RESTORATIVE DENTISTRYからSamuel先生のEditorial Voiceをご紹介いたします。
50年以上の歯科臨床から見えてきたこと by Samuel C. Ursu
歯科疾患、歯科性外傷、あるいは先天性の歯の形成異常などの治療に携わってきた修復歯科医師であれば、治療努力の成果は患者の寛大さによるところが大きいことをよく認識しているはずである。治療を成功裡に達成するには、患者が本気で心の底から協力してくれることが不可欠であることをわれわれ歯科医師は経験から学んできた。そうした意欲のある患者はどのような治療であったとしても良好な結果を享受することが多い。
適切な協力関係を結ばずに治療を推し進めるならば、どのみちたいていの治療は失敗に終わるものである。どのような場合でも、患者と歯科医師の信頼関係が成り立たなくなったら、患者は別の歯科医院へ転医するのが得策であり、歯科医師はその患者の治療をあきらめるのが最善の方策といえよう。
治療方法が効果的であるということは、患者の心情と経済的余裕、さらには知的理解さえもが、術者の技量と融和しているということである。したがって、どのような治療を行なうにしても、患者、修復歯科医師、協力する専門医、さらにスタッフを含めた全員の対話による共通理解が不可欠である。
歯科修復治療の中では、補綴治療はもっとも時間がかかり、治療費も高くなりやすい術式といえる。ただし、補綴治療が完了したとしても、それで補綴治療が完結するわけではないし、歯科治療が終了するわけでもない。
補綴治療は患者の生理学的および心理的な健康をもとにあった状態に構築し直す方法にすぎない。歯科修復による再構築が成功するということは、歯科医師は完了した補綴を改めて見直す必要があってはならないし、治療後の結果こそが完了した補綴の評価基準であり、患者側からすれば、回復した喜びと満足を心から感じている状況でなくてはならない。
歯科修復による再構築は芸術であり、症例ごとに個別の特徴を有する過程を経て達成されるため、別のすべての歯科治療とは異なる。その治療は科学的な法則と原理に依拠して行なわれるが、どの症例も特有で同じではない。
どの修復も個別に製作される。つまり、治療内容、支台、材料、および最終目的が同じ症例であっても、まったく同一の補綴物で間に合うわけではない。修復歯科医師の管理責任は特有なデザインを自由に駆使でき、しかも特別なデザインを創造的に活用することにある。修復歯科医師の技量は、そうした管理責任を果たせるか否かで評価される。
修復歯科治療の工程は、患者が治療を求め、続いて歯科医師が治療の実施を決断することで始まる。治療計画に相互が同意いた後、どちらか、あるいは双方の拒否の申し出がないかぎり、別のすべての治療法を考慮に入れたうえで、歯科医師と患者の協力の下、一つの治療法を選択することになる。この選択肢は特異的に処方されたものではなく、通法によって事前に提示された内容であり、治療が進むにつれ特異的に発展していく。
その治療は物理概念や形態、構造にとらわれることなく始まるが、治療途上で基礎的な科学法則や物理的および芸術的原則、患者の要望(明示、暗示にかかわらず)が効果的に取り入れられ、さらには双方の良き信頼関係が存続していることこそが、治療が順調に進行している評価基準になるといえよう。
歯科医師が治療に取りかかる目標は、疾患とその放置による損害を改善すべく、何を差し置いても患者にとって最善の好ましい治療計画を立案することにある。このような努力をすることで、歯科医師は自分が有する技術に頼らねばならないし、自分のもてる芸術的技量に見合った科学的な範疇で治療をすることになる。さらに、患者からの要望、および宇宙の物理的法則によって示された限界の中で、治療を遂行する必要に迫られることになる。
歯科医師として、難治性で手に負えない、治療が困難な症例に遭遇することがある。そうした症例の多くは、かって有能な歯科医師によって治療が施されたにもかかわらず、結局のところ再治療が必要になったわけである。過去になされた修復治療と照らし合わせて、自分の能力と技量の範疇で良好な結果を達成できるかどうかという疑問にぶち当たることになろう。
いかなる修復治療であったとしても、多分うまくいくであろうと楽観的に考えることはできる。しかし、もしその修復歯科の症例がかなりの長期にわたって機能していた場合には、近い将来に失敗が訪れることを想定しておいたほうがよい。完璧は蓋然性ではないことを理解して、よく承知しておくべきである。失敗が生じた際に期待できる最善のことは、改善を試みて問題を解消することに真摯に対応することである。
一つの治療術式を始めてしまったら、元に戻ることは難しいもので、ひたすら術式を推し進めるしか道はないように思える。そして患者に強いる肉体的負担と経済的負担がどれほどのものになるかは神のみぞ知るだけであるといった未知の課題への不安が残るだけである。歯科医師とそのスタッフは不安と疑惑、恐怖に苛まれ、同時に精力的に、過度に批判的で、完璧主義になり、自分自身の性格や動機、さらには行動力に関して洞察を要することとなる。
すべての治療内容の創造性はその歯科医師の人格と関連している。歯科医師は何もない空間に生息しているわけではなく、古くから培われてきた伝統を継承しており、その先には未来が横たわっている。今、歯科医師は何がなされてきたかという時代と何がなされるのかという時代のはざまにいるわけで、その境界部分にこそ歯科医師の自由と責任が存在している。
テーゼ(定位)−アンチテーゼ(反定位)−ジンテーゼ(総合)
良くない日でも、少なくとも患者に害をなすことなく、少しでも学べることを期待できよう。良い日でも、より良い結果がえられるわけではない。
Ancora Imparo
私はまだ学んでいる
以上Samuel先生のEditorial Voice転載いたしましたが患者の協力がなければ良い治療結果は得られないということは実感できる言葉ですね。
未熟な歯科技量しか持たなくてもずっと通院してくれる患者は歯科医師にとって神さまみたいな存在ですね。治療に不具合が生じても通院してくださり歯科医師に経験を積ませてくれる患者に支えられ歯科医師は成長していきます。そして他の患者に熟練した卓越した技術を提供できるようにもなります。
そのような神さまの治療ができる歯科医師は幸福者ですね。
わたしはときどき幸福です。
Samuel先生の「良くない日でも少なくとも患者に害をなすことなく、少しでも学べることを期待しよう」という言葉はいいですね。
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